済北郡(濟北郡、せいほく-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代以前から隋代にかけて、現在の山東省北西部と河北省南東部にまたがる地域に設置された。

概要

済北郡は秦の三十六郡に含まれていないが、姚鼐と王国維が秦代に済北郡が置かれていたとする説を唱えており、譚其驤がこれを批判している。

紀元前206年、項羽により田安が済北王に封じられ、済北国が置かれた。紀元前201年(高帝6年)、前漢により劉肥が斉王に封じられ、膠東郡・膠西郡・臨菑郡・済北郡・博陽郡・城陽郡の73県を封邑とされた。紀元前178年(文帝前2年)、東牟侯劉興居が済北王に封じられ、済北国が置かれた。紀元前177年(文帝前3年)、済北王劉興居が反乱を起こして敗死すると、済北国は廃止されて、済北郡にもどされた。紀元前164年(文帝前16年)、安都侯劉志が済北王に封じられ、済北国が置かれた。紀元前86年(始元元年)、済北王劉寛が呪詛の罪で自殺すると、済北国が廃止され、泰山郡に編入された。

90年(後漢の永光2年)、和帝の弟の劉寿が済北王に封じられ、泰山郡が分割されて、済北国が置かれた。済北国は兗州に属し、盧・蛇丘・肥成・茌平・剛の5県を管轄した。

曹魏のとき、陳王曹植の子の曹志が済北王に封じられ、済北国が置かれた。

西晋のとき、済北国は盧・臨邑・東阿・穀城・蛇丘の5県を管轄した。

五胡十六国の前燕のとき、慕容泓が済北王に封じられた。前秦のとき、苻昶が済北王に封じられた。

南朝宋のとき、済北郡は蛇丘・盧・穀城の3県を管轄した。

北魏のとき、済北郡は済州に属し、臨邑・東阿・盧の3県を管轄した。

583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、済北郡は廃止されて、済州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、済州は済北郡と改称された。盧・范・陽穀・東阿・平陰・長清・済北・寿張・肥城の9県を管轄した。

621年(武徳4年)、唐が徐円朗を平定すると、済北郡は済州と改称され、済北郡の呼称は姿を消した。

脚注


三国時代の人物史(3) 主要人物の出身地

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